私にとって内観とは、まず何よりも、自分を、正確に、客観的に見る(知る)ための技術です。
私たちは通常、自分が生きて経験してきた過去の事実を脳内編集して、自分の都合の良いものに仕立て上げ、その脳内編集された「物語」のなかで、それを信じて生きています。
それが、「物質的には豊かであったが、内面に寂しさを抱えて育った子供」物語であれ、
「虐待を受けた不幸な子供」物語であれ、
「有能で、魅力に溢れた成功者」と云う物語であれ。
内観は、まず、その「自分物語」から外に出るための技法です。
そして、より客観的で現実に適合した、より自分が幸せで、他人にとって害のない物語へ、
人生全体を編み直し、過去の記憶を再構成していきます。
その「編み直し」を、面接の中で言葉にし、語ることを通して行なっていきます。(物語療法としての内観)
これが内観の前半部で起こっていることです。(主に、幼少期の両親に対する内観)
そして、自分に都合良く編集された過去の記憶の中での自分の心の動き・本心・本性を、
正確に、自己正当化・自己弁護無しに見直して作業を通して、
これまで知っている・分かっていると思ってきた自分とは違う、
もっと深いレベルでの自分自身の正体(本質)と出合うことになります。
これが、物語自体からの脱出をもたらす、次の段階の自己観察となります。(主に、「嘘と盗み」の内観)
私たちが通常、自分の顔を見よう・知ろうとすれば、物理的に「鏡」を使って、
そこに自分の顔を映す以外の方法では、見る・知ることはできません。
もし、生まれてからずっと、鏡が無い世界に生きていたとしたらどうでしょう。
それぞれの人が、自分の願望や自惚れを元に、好き勝手に自分の顔を頭の中で想像し、
多分こんな風だろうと思い込み、それを一生信じて生きていくことになります。
これは、物理的な眼に見える世界に於いては、笑える滑稽な喩えにしか過ぎませんが、
こころの世界においては、それが実際に起こっていることなのです。
私たちは皆、その状態に居ます。
内観は、「親、兄弟、伴侶、仕事の人間関係」など、
他人や環境と云う対象を「鏡」にして、その、見難い「自分自身のこころ」を見ようとします。
その関係性のなかでの自分の言動(言葉や行い)が、
言い訳しようもない形で「関係の鏡」のなかに映し出されます。
内観は、こころを映す鏡です。
そこには、これまで見てこなかった自分の素顔、内面的な、あるがままの顔が映されます。
それは多くの場合、幻滅をもたらすショックなものですが、
自分の本当の顔・姿を正しく知ること(正確な自己認知)から、はじめて正しい身の処し方(今後の生きていき方)が出てくるのであり、勘違いに基づいた人生行路など危険なものでしかありません。
また、自分を正確に知るためには、内的な視力も必要です。
もし、眼が悪く、外界の物事がはっきり見えていなければ、見間違いや勘違いが多くあるように、
自分の内的な心の動きも、(仮に「関係の鏡」に映し出されたとしても)
「内的視力」がなければ、正確に見・知ることができません。
その「視力」がない限り、「自分は、これこれこういう人である」「自分の内面はこうである」「自分はこういう気持ちでそれを行なった」などの自己認識が、「見間違い・勘違い」「自己正当化による事実誤認」である可能性も、あるいは「自分に対して、巧妙に偽装され、隠された嘘」である可能性もあります。
内観は(そして、ヴィパッサナー瞑想は)、その「内的視力」を高めるための体系だったトレーニング法です。
内観は、自分の、より深い内面を、正確に見・知るための技法・訓練法であり、
その正確な自己認識から、適切な生き方、身の処し方が出てきます。
若い、将来のある方の人生の方向探し・自分探しに、
病気でもう先がない、人生の総決算を控えられている方に、
就職の前に、転職の前に、結婚の前に、離婚の前に、
内観は、人生のどのようなタイミングであれ、「いま、この時に、やって良かった!」と思えるし、
また、常に適切なタイミングで機会が巡ってくる不思議な技法でもあります。
一人でも多くの方が、この日本発祥の心理療法-気づきの行である内観に触れられることを願っています。
私にとって内観は、知っている限り最高の、最も有効な平和運動、人類の平和へ向けての活動です。
ぜひ、経験されてみて下さい。
自分を知るのは怖いけど、
知らずに死ぬのは、なお怖い。
自分を知るには、内観が近道です。
愛の落穂拾い・魂の宝探し(宝石拾い)、としての内観
幼児期の両親・家族からの愛情の再確認。
黄金の少年時代の再発見、発掘。
その結果、内観の第一段階として、
バランスの取れた、肯定的自己イメージの確立による心理的安定、と云う基礎作り。
愛されて(世界からの世話と愛を受けて)育ってきた自分を確認することで、
自己評価の低さ(それ故の、劣等感/優越感、肥大化した自己イメージ防衛)と云う問題を抱えていた自己に、
健全な自己像・パーソナリティ形成に必要な、健全な(肥大化していない)、基礎的な自己肯定感・自己存在承認(自分は生きていることを許されているんだ、存在を承認されているのだと云う感覚による)が可能となる。
過去との和解、自分の生まれた境遇・親・環境・身体的状態との和解・受容
親を許し、親から許される、ココロ(魂)の体験。
客観的視点(第三者的視点、相手の視点から自分(状況全体)を見る経験。
自分を離れた視点の確立。
受けたものの大きさと、返したものの少なさの非対称の自覚。
有り難さ、恩の感覚。
報恩の思いの発生。
罪業感から、悟り/救いを求める内観へ。
どこまでも汚れた、救われない自分の自覚・凝視。
宗教的行としての内観。
「公案系」の技法としての内観 (弥蛇の公案) 二種深信
参考ファイル
「久松真一集」
「たった今、他ならぬ此処で、どうしてもいけなければどうするか」
「どうしてもだめならば、どうするか?」
これら6つの要素は、必ずしも時系列で生じてくるものではなく、
全体が同時並列的に、渾然一体となって内観者の心に育ってくるのですが、
ただ、あえて順序を言うならば、1.の「愛情の再確認」がまずあって(それは、たいてい、父母・養育者に対する内観で起こります)、4.の「罪の自覚 罪業感」の感覚は(これは、特に「嘘と盗み」というテーマで自覚されてくるでしょう)、自分の中に、1.の発見による「基本的な自己肯定・自己存在承認・自己受容」と云う基盤があった上で、熾烈になっていく(あるいは、その両者が相伴って高じて来る)のが、望ましく、理想的と言えるかもしれません。