Art of Awarenss - アウェアネス・リトリートセンター (気づきの研修所)
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気づきのアート― 気づきの技術・気づきの芸術
気づきのアート― 苦しみから気づきへ






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気づきのアート―苦しみから気づきへ


(たとえ)それがどんなものであれ、いま現に存在する事実(不安、痛み、苦しみ)に留まり、それを変えよう(無くそう・離れよう)とすることなしに、それに全的に気づいていること。

それは、事実が自然な仕方で花開き、真理へと変貌していくのを助けます。

「気づきのアート(技術・芸術)」の美しさが、そこに存在します。



気づきの源泉



決して枯れることの無い、決して澱むことの無い「気づき」の源泉が、時代や文化を超え、私たち ・存在の奥底に、渾々と湧いています。

歴史上、ある人々は、その源泉に至り、自ら喉の渇きを癒しました。

それだけでなく、彼らはそれを汲んで持ち帰り、自らと、残る人々のため、「気づきの教え(理論と技法)」を作りあげました。

多くの教えの流れ(伝統)が生まれ、様々な変転を重ねながら現代まで伝わりました。

現在、歴史の末端に存在する私たちの前に、それら全てが開かれています。

オープンシークレットとしての真理



しかし、それらは「開かれた秘密(オープンシークレット)」として存在しています。

何も隠されてはないし、何も秘められてはいない―
しかし、その全ては、不念・不注意(気づきの無さ)の状態にある私たち・日常意識にとっては、埋め隠された真実としてしか存在しません。

それはまるで、普通の文書に偽装された暗号文を、そうとは知らずに扱っているようなものです。

すべては、この表面、この表層に、あるがままに剥き出しで現成している。
しかし、それは、いまの、この自我モードで働いている脳=私たちには見えない・読めないのです。

その「開かれた秘密」の扉を開くため、「透明な暗号」を解読するため、ある鍵が必要となります。

「気づき」と云うマスターキー



その「鍵」とは、磨き上げられ、結晶化した、私たちの内なる「気づき」、それ自体です。

そのマスターキーを使って始めて、オープンシークレットの、教えの扉は開きます。

そのとき、(教典や指導者など)他人の言葉を通してではなく、過去、数知れぬ人々が水を汲んできた尽きせぬ源泉に、直接通う道行き(修行)が始まります。

そのとき私たちは、どんな問題の解決であれ、他に、未来に、方法に求めることはしないでしょう。 答えは常に現在に、そして自らの気づきのうちに存在すると明らかに知るからです。

気づきのアート



それは、はじめ(入門、入り口)はあるけど、おわり(卒業、出口)の無い、死の瞬間まで続く、果てしない道です。

その行程の一歩一歩に、理解、発見、気づき、洞察があり、己を見ることの底無しの苦しみと惨めさがあり、そして他の何ものとも代え難い、大いなる喜び・自由・開放があるでしょう。

すべてが最終的に気づきによって統合され、気づきのなかに飲み込まれていきます。
あるいは、統合ではなく、すべてが未分化な源泉まで辿り直すと言っても良いでしょう。

それは、瞑想、ボディワーク、内観、懺悔、武術、踊り、治療、ヒーリング、哲学など、すべてが未分化な始原点であり、あらゆる技法、技術、型、動き、洞察が産み出され続ける存在の状態=意識の次元でもあります。

沢山ある河の支流にいれば別もののように見えますが、それら一つ一つを源流まで辿るなら、すべてが流れ出てくる源、すべてが未だ分かれない始原点に至る― そのような感覚です。

それは科学と芸術をつなぐもの― 「内省・内観認知科学(脳科学)」としての「心の科学」の観察・実験・臨床の現場でありつつも同時に、即興の音楽、舞踏、絵画、詩であり、治療であり、懺悔であり、神への奉納物であるような何かです。

それは自己の心身に催されるあらゆる出来事を瞬間毎に花開かせ、解消させてゆく、途方もなく繊細な技術(サイコテクノロジー)であり、同時に、瞬間瞬間刻まれる、私(の心と身体、知覚と思考、感情)を材料とした、気づきによる存在の芸術(ART OF LIVING)です。


食べること、歩くこと、話すこと、思考すること、悩むこと― それら全てが、瞬間瞬間、創造、美、気づき-洞察のなかにあること。

充満した気づきのなかで生きること、気づきの海の中で揺蕩うこと。

そして、それが日々の生活そのものと一つであること。

生活そのものがアート(技術・芸術)であり、気づきによって巧みであり、Gracefulであること。


そのとき、「瞑想」という言葉も「ボディワーク」という言葉も必要ないものとなっていくでしょう。

最後には、「気づき」「見ること」「実践」という言葉すら必要なく、自覚されないものとなるでしょう。

そして、そこには、ただ、それぞれの「生そのもの」「生のみ」が残るのでしょう。


以下、研修に向けての具体論・実践論について触れていきます。



研修に向けての予備的知識



まずは、クリシュナムルティの言葉に一通り触れてみて頂きたいです。

資料室 「クリシュナムルティ読解」


もし、その方の気づきの純度・強度・レベルが既に充分高ければ、こちらの研修で行うような、色々な技法を使っての「気づきの基礎訓練・チューニング(調律)」の必要性はなく、クリシュナムルティの言う通り、一切の技法も努力も方向づけも無しの「あるがまま」の観察を通して、問題の理解と、その深化、そして最終的な解放があるでしょう。
その作業を進めていく上で必要な具体的注意は、気づきの実践マニュアル(攻略本)たる彼の著作のなかで詳細に語られております。

しかし、私含め多くの修行者は、悲しいかな、絶対的に気づきの純度・強度が足りません。
今あるままでは、あまりに気づきのレベルが低く、鈍く、故にマニュアルがマニュアルとして機能してくれない(理解できない)のです。

そこに色々な技法を用いての(前段階の)「気づきの基礎訓練」の意義が存在しています。

最終的に、それらの技法が身について(=気づき・洞察モードが、意識・脳に構造化されて)、特に「技法・テクニック」としてやっている自覚がないまま、それが充分に機能している状態が日常化され意識の常態となってしまったならば、そのときには、それらの技法はすべて捨てて忘れてしまえば良いし、また、そうしなければクリシュナムルティの言う「選択なき、限界なき、理想(あるべき)なき、刻々の全面的観察」の状態には入れないでしょう。

補助的技法には、使うべき時期があり、また、離れ、捨てなければならない時期があります。

※ しかし実際には、「捨てる」必要も「忘れる」必要もありません。
それらの技法が完成したとき、それらは静かに本来のものである「Awareness(気づき-意識)」のなかに溶け込み、姿を消し、そして透明な形で完全に機能します。
それが見られる(認識される)対象ではなく、見る器官となって自分の視界から消えたとき、はじめて完成した(=身についた)と言えます。


補助的技法の存在意義



それは初めて自転車(二輪車)に乗るのを覚えるときに似ています。

「真の意味で二輪車で乗れるようになりたいなら、初めから助けの杖、補助輪としてのコロを使うべきではない」と考えてコロ(補助輪)を使わないか、「一人前に乗れるようになるまでは補助輪の助けを借りるのも有効である」と考えるかの違いです。

「コロ」と云う一時的な補助の助けを借りないでも、繰り返し転んで転んで、そうしながらも、そのうち乗れるようになる人も居るでしょう。

しかし、もし転び続けるのに疲れて「自分は自転車に乗る才能がないようだ」と諦め、そのまま一生自転車に乗らないで暮らす人が居たなら不幸なことです。

補助輪付きであろうと実際に自転車を運転し、「自転車に乗る」と云う行為の具体的な運動イメージを脳のなかに形成することは、新たな技術の習得の際、役立つでしょう。

ただし既にコロ無しで乗れるようになっているにも関わらず、それに気づかず、いつまでもコロつきで乗りまわしている人が居たならば、それは滑稽なことですし、「自転車とは、本来コロつきで乗るものだ」との信念(教義)を築いてしまうならば、それは明らかな間違いでしょう。

それと同じような話ではないかと考えます。

※ 「リハビリ前期の装着具」と云う喩えでもって、同じ説明をすることも可能です。


不可視の檻 透明な色眼鏡



しかし、補助具=技法を使うことに伴う危険性もあります。

私たちが触れることのできる思想・理論・技法・方法論のすべては、それぞれの伝統・文化・党派・個人による条件づけ・偏りを背負った限定的で色づけられたものであり、常に必ず、党派性・排他性・独善性・技法依存性という毒を、見えない形であれ含んでいます。

それらに対する感受性、舌の良さを持っていないと、気がつかないうちにその教義・その理論の言うとおりに世界が見えてきて、その透明な檻、透明な色眼鏡にまったく気づけないと云う事態に陥ります。

「眼からウロコが落ちたのと、眼にウロコが飛び込んだのと、どう見分けられるのか?」と云う言葉がありますが、この問題は瞑想宗教の現場に於いては、深刻な、笑えない現実として存在しています。

その危険性に対する注意深さ、あらかじめの用心が必要です。

瞑想宗教・精神世界と云う危険なジャングルに足を踏み入れるなら(そして、そうする必然性があるのなら)、まずやるべきことは道中予想される危険から身を守る装備(知識と道具)を手に入れておくことです。

クリティカル・シンキング(批判的思考)関連の読書、思索が、そのための装備としてお薦めできます。

これらの情報に触れておくことによって、瞑想宗教に関わる際に陥りやすい問題点を理解し、
今後経験するかも知れない様々な事象(罠)に対しての免疫力をつけておくことができます。

これは全てのコースに共通して必要となる、ものごとを実証的・批判的に吟味できる思考能力・判断力・洞察力の基礎訓練として重要であり、気づきの修行の最初のステップは、まず何よりも「健全な懐疑精神」を養い育てておくことにあると考えています。

● 参考となる資料

批判的思考 - Wikipedia

※「批判」と「否定」の違い
「批判」という言葉は、反対する、受け入れない、などのイメージから、「否定」という言葉と同義で用いられるケースが少なからず存在するが、ここで云う批判とは、情報を分析、吟味して取り入れることを指しており、客観的把握をベースとした正確な理解が必要とされる。
「否定」という言葉はその情報自体を拒絶するという意味合いが強く、また主観的要素を含んでおり、「批判」という言葉の意味とは隔たりがある。 【批判的思考 - Wikipedia】より、一部抜粋。

「科学的な宗教」と「宗教的な科学」

※体験主義の危険と、教義への理論的自閉
多面的・批判的に自身の体験を吟味・検討する能力は、特に瞑想宗教に関わる場合、必要なものです。 以下の資料に目を通すことによって、その基礎訓練が幾らかでも為されるかも知れません。
宗教や瞑想に関心を持ち、実際に実践-行に取り組もうとされている人には、まずお勧めします。

怪しげな体験主義― 私はそれを体験した! 故に、それは事実・真実であるに違いない― や、
教義への理論的自閉― うちの教義はスゴイ! それで世界のすべて(すべての現象)を説明することができる― などにはまり込むことのないよう、予防薬として。 【本文より一部抜粋】

クリシュナムルティ この条件づけの問題

クリティカル・シンキング(批判的思考)とは?

※クリティカル・シンキングとは、あらゆる情報に対して批判的な思考を働かせ、分析する習慣のことを指します。 これが、逆に、あらゆる情報を無批判に受け入れるならば、クリティカル・シンキングが欠如している状態であると言えます。
クリティカル・シンキングとは、人の出した結論を「ただ否定する」だけのことを言うのではありません。 その意見の根拠に対して、「本当にそうなのだろうか?」と疑問を投げかけ、最終的に自分の頭で判断する習慣のことを言います。  【冒頭文より一部抜粋】

へんな話を信じちゃわないために―健康的な懐疑本 (Amazonのリスト)




ガンガジ 『ポケットの中のダイヤモンド』、ラメッシ・バルセカール 『誰がかまうもんか?!』の二冊も、読んでおく価値のある本だと思います。

その他のオススメできる関連本については、「気づき・瞑想・覚醒」(Amazonのリスト)をご覧下さい。

実践的技法について



・ ヴィパッサナー瞑想
・ 内観
・ ボディワーク → 自分に縁があり、肌に合うと思えるものであれば、西洋ものでも、中国ものでも、日本ものでも、武術系でも、整体系でも、ダンス系でも、何でも良いので何か一つ。



これらに、まず実際に触れてみて、自分に合いそうなら本格的に取り組んで、じっくり時間をかけて身体/意識構造に定着させていくことができれば、それで充分足りると思います。

下手に色々な本を読んで心を迷わすよりも、厳選し、絞り込んだ最小限の知識と技法の理解と実践に、使える時間とエネルギーを注ぎ込んでいった方が得られるものは多いですし、問題解決も速いです。

瞑想宗教・精神世界のウインドウショッピングを何処まで続けてみたところで、物知りや批評家になれるだけで、現実の自分の苦しみは、さほど軽減されてなかったりするものです。

人間が、苦しみを生み出す自らの心の仕組みそれ自体を変えるには、半端でない専念努力が要ります。
その情熱を伴った実践に踏み込むためには、あれこれ目移りしている段階は早く通過し、卒業しなければなりません。

現代は、ある意味不幸な時代で、本でも、ネットでも、次々と新しい覚者、新しい技法、新しい教えが登場し、話題になり、それがスピリチュアルビジネスとしての市場を持ち、「もっとすごいグル、もっとすごい体験、もっと強烈で、もっと簡単な覚醒法」と云う、「もっともっと病」「つぎつぎループ」に巻き込まれ翻弄されて、実質的な、それこそが本当に身になる自己直面の修行が、なかなかできません。

上に挙げた、クリシュナムルティの本も、ガンガジの本も、ラメッシの本も、その中身を血肉化し、本当に自分のものにするためには、相当の時間と取り組みを必要とするはずです。
しかし私たちは実際にはそれをせず、すぐ次の本・次の話題へと眼を移し、新しい技法、新しい覚者を探して前に先に進んでいきます。

実のところ私たちは、既に必要充分な知識も技法も手に入れています(持っています、知っています)。
にも関わらず、それら既に持っている資源を生かすことなく、いつか、どこかで「この満たされることを知らない心を満たしてくれる何か」に出会うことを夢見て、さまよい歩きます。

「一冊の人を恐れよ。一冊の本しか知らない、一冊の本しか読まない人を、真に恐れよ」と言います。人生の途上で出会った、ただ一冊の本だけを心に抱き、その中身を真に自分のものにした人を。

情報過多な時代にあって、私たちもそう在りたいものです。

瞑想・内観・ボディワークの三位一体



瞑想(ヴィパッサナー、禅)・内観・ボディワークの三つのコースは気づきの研修の全体において相補的・補完的であり、最終的に私たちの生そのもの、意識そのものである一つ舞台に流れ込み、そこで合流・融合し、一つのものになる(である・であった)ことにおいて完成します。

それを、三角錐(四面体)を例に説明してみます。

三つの底辺のそれぞれが「瞑想」「内観」「ボディワーク」であり、それぞれ底辺の端で、他の二つと繋がっています。
頂点に向かって登るにつれ、三つの線分は距離を縮め、最後に頂点では一つとなります。

それと同じように、三つの技法(モジュール・領域)は、道を進むにつれ近づき、最終的に、私たちの気づき-意識のなかで融合します。
そして、純化された気づきとして、透明な形で、すべての内で働きます。

そのとき、「瞑想」「内観」「ボディワーク」の区別はなく、それを見分けることもできません。

全一の、切れ目のない気づきにおいて、内観は現在の瞬間における刻々の自己観察、関係性への気づきとして瞑想に変貌し、ボディワークもまた、身体で行う刻々の瞑想・内観へと深化します。

あるいは、こう表現することもできます。

研修所には、ただひとつ「気づきの基礎訓練(チューニング)コース」のみがあり、そのなかに仮設の入り口として「瞑想」「内観」「ボディワーク」の三つが、個々人の問題の性質・傾向に応じて設けてあるのだ、と。

つまり、「登り口は三つあるけれど、頂上はひとつ」で、それらを別々の技法として理解し、実践している段階では、それら一つ一つの技法の真価を本当に理解しているとは言えないのです。

それら全てに段階も無く、優劣も無く、見分けもつかず、ひとつが全てを含み、全てがひとつの中に全身を顕している。

そのとき、それぞれの流派・技法間での優劣争いに関わる気持ちなど、とても起こらないでしょう。 すべての伝統に対するバランスを保った敬意のみが湧いてきます。


統合的/全人的実践の重要性について



なぜ、ヴィパッサナー、内観、ボディワークの統合的実践(双習)がそれほど重要なのでしょうか?

まず根源の側から語るなら、「気づき」それ自体が、そもそも(元々)全体的/統合的なものとして存在しているからです。
それは、心/身体、瞑想/ボディワーク、認知/情動系、知/情/意などと分離していない、分化する以前の、ひとかたまりの世界から流れ出ているものであるからです。
それが根本としてあります。

次に、分離した側から語るなら、ココロの領域の開発訓練(瞑想・内観)と、カラダの領域の開発訓練(ボディワーク)、知覚・認知系の技法― この宇宙の創造者・独在者としての私へ向かうワーク(ヴィパッサナー瞑想、禅)と、認識・情動系の技法― 社会的関係性・他者の存在に眼を向けたワーク(内観)と云う、異なった領域を扱う、異質な(矛盾した)構造を持つ技法同士の双習・組み合わせ・掛け合わせは、より深い、より強烈で根源的な自己(世界)認識を与え、より先の風光を見させてくれるからです。(左右の足の歩みの如く、車の両輪の如く)

それは、(少し古い言い方ですが)弁証法的な拮抗のプロセスとして、正(テーゼ)・反(アンチテーゼ)と云う、矛盾したものの鬩ぎ合いによって力と深みを増し、より上位の統合(合、ジンテーゼ、止揚)・洞察・認識へと至ります。

※ ヘーゲルの弁証法を構成するものは、ある命題(テーゼ=正)と、それと矛盾する、もしくはそれを否定する反対の命題(アンチテーゼ=反対命題)、そして、それらを本質的に統合した命題(ジンテーゼ=合)の3つである。全てのものは己のうちに矛盾を含んでおり、それによって必然的に己と対立するものを生み出す。生み出したものと生み出されたものは互いに対立しあうが(ここに優劣関係はない)、同時にまさにその対立によって互いに結びついている(相互媒介)。最後には二つがアウフヘーベン(aufheben,止揚,揚棄)される。このアウフヘーベンは「否定の否定」であり、一見すると単なる二重否定すなわち肯定=正のようである。しかしアウフヘーベンにおいては、正のみならず、正に対立していた反もまた保存されているのである。ドイツ語のアウフヘーベンは「捨てる」(否定する)と「持ち上げる」(高める)という、互いに相反する二つの意味をもちあわせている。 なおカトリックではaufhebenは上へあげること(例:聖体の奉挙Elevation)の意。 【弁証法 - Wikipedia】より
※ し‐よう【止揚】‥ヤウ〔哲〕(Aufhebenドイツ 「廃棄」「高めること」「保存すること」の意)
ヘーゲルの用語。弁証法的発展では、事象は低い段階の否定を通じて高い段階へ進むが、高い段階のうちに低い段階の実質が保存されること。矛盾する諸契機の統合的発展。揚棄 ようき。【広辞苑 第五版】より


身体系の技法(ボディワーク)に関しては、もし、その方が、一週間以上のリトリートを行なっても、特に腰も肩も凝ることなく、痛みやコリ、不快感を覚えない「恵まれたカラダ」を持っておられる方であれば、必須ではないかも知れません。

ただ言えることは、「気づき-洞察モード」の意識状態を存在に定着させるには、自分の身体自体が、それの受け皿となれる「気づき」のレベルに居なくてはならず、それができていない限り、「気づき-洞察モード」の意識は常に不安定で、一時的なものであり、存在(身)に定着しません。
身体の「気づき-覚醒」を伴わずに、安定した「気づき-洞察」意識は無いからです。

また、ボディワークの良い所(存在価値)は、瞑想や内観で分かったと思っていることが本当に存在に定着しているか、、本当に身体で証明できるか、頭でっかちの観念優位になっていないかを、実際のカラダの動きによって、あるいは他人との手合わせによって、誤魔化しようもなく確実に点検・検証できる所にあります。 「グラウンディング」「センタリング」など精神世界ではありふれた言葉を、本当に自分の体で実証できているのかどうか。 これは、ともすれば観念的な理解・了解・独りよがりに陥りがちな私たちにとって、大きな安全装置・自己チェック機構となります。

故に、この三つは一応、「これ以上絞れない、三位一体、最低限の三つである」と言えます。

更に、もう一つ加えるとしたら、「食」に関する学習と取り組みが挙げられるでしょう。

● 「統合的な実践」に関する参考書として、『実践 インテグラル・ライフ−自己成長の設計図』 を挙げておきます。

※ 訳者の方の後書きから一部抜粋。 (カッコ内は引用者・霊基による補足)

「この作品で著者たちが言おうとしていることは非常にシンプルなものです。
すなわち、人間の中には「ボディ(身体)」「マインド(理性・知性)」「スピリット(精神性・魂)」「シャドー(潜在意識・自我の影の部分)」と云う主要な4つの部分が存在しており、私たちが真に包括的・永続的な治癒と成長を実現するためには、そられ全ての領域の実践に同時並列的に取り組むことが必須となる―と云うことです。
…現在の市場には、即効的な能力開発(問題解決)を約束する無数の関連書籍や研修が存在しています。ただ、一瞥すると明らかなように、それらの大多数は、ある特定の技法や方法を紹介しながら、それこそが真の成功や成長を実現するための方法であると主張するものです。
しかし、人間とは非常に多面的・重層的な存在であり、そうした少数の方法だけを実践することだけでは、そこに真の治癒と成長を実現することは到底できません。
…そこでは、自己を完全に指導者や伝統に明け渡すのではなく、自身の欲求と状態を的確に把握しながら、多様な資源(リソース)を創造的に融合し活用していく必要があるのです。
…ただし、自らの判断に基づいて実践のあり方を構想しようとするとき、そこには往々にして、既存の権威を否定して、あらゆる「型」を拒絶しようとする安易な発想に陥る危険があります。
そうした危険を回避し、世界に存在する豊穣な伝統の恩恵を統合的に活用できるためには、多様な「型」の共存を可能とする包括的な枠組みが必要となります。(この本は)、そうした枠組みを提示するものなのです。」

水平的な道行きと、垂直的な恩寵



道の行程を説明するとき、水平的な(横向きの)漸進的な説明と、垂直的な(縦に断ち割る)頓悟的な説明とが可能です。
ヴィパッサナーは主に水平的な、禅やアドヴァイタ・ヴェーダーンタは垂直的な説き方を好みます。

水平的な歩み



今後、自分の人生の多くの時間をかけて、この道を歩んでいくつもりであれば、段階的なココロの成長(取り組む順序)を考えて、そのときそのときの課題や技法を決めていく必要があります。

「無我の体験」「自我からの開放」「さとり、見性」を願う前に、まず、そもそも壊されるべき自己・自我が、健全に、倫理的に、バランス良く形成されていなければ、「自我を壊す修行」は危険なものとなり得ます。

問題は、多くの場合、一時的・突発的な無我の体験を、再び戻って来た自我が、「所有化」「私物化」することにあります。 そして、その戻ってきた自我は、その人が元々持っている性格上の癖・欠点を全てそのまま持っている上、普通の人間には中々できない、無我の体験、悟りを経験したと云う大きな記憶を持っています。 故に「俺ほど凄い(深い)無我の体験をした奴は何処にも居ない! この俺さまほどの!」と云うジョークのような状態になりかねないのです。

それぞれの行法には、するべき順序があり、それを飛ばして高位の修行に取り組んでみたところで、(仮にそれを実現できたとしても)、お城の基礎をキチンと組まないままに天守閣の造営に入るようなもので、危うさ、バランスの悪さがあり、壊れ、崩れやすく、人間としての歪みを後に残します。

また、修行の順序と云う、時間的な問題とは別に、全体の中での成長のバランスの問題もあります。

もし右腕だけが異常に成長し、肥大化した赤ん坊が居たとしたら、私たちはそれを異様に思うでしょうし、本人にとっても、それは健康な発育のため、好ましいことではないでしょう。

それと同じように、感情、身体意識、社会性・他者との関係性、家族との関係性、異性との関係性など多くの側面で、自分のどの部分が弱いのか、発育不全なのかを自覚認識し、その部分に重点的に取り組み、全体をバランス良く成長させていく― そのような客観的な自己対象化と、それに基づいた着実な修習が必要です。

垂直的な力、恩寵



漸進的な歩みを進めるなかで、不意に、垂直的な力・恩寵とでも云うしかない、絶対的な体験を与えられることもあるでしょう。
自己も世界も砕け散った、時間を越えた絶対の今に、突然、投げ出されるような体験です。
そのとき、これまで歩んできた「漸進的な道」「時間の中でのアプローチ」の根本的な誤りに気がつくでしょう。 「段階的な修行など、何と馬鹿げたことを考え、行ってきたのだろう!」と、独り、笑うでしょう。
その高揚した意識=存在の明晰さは何日か続くかも知れません。
あるいは、何ヶ月か掛けて、ゆっくりと徐々に現実に離陸することになるかも知れません。
あるいは何時間かで、余韻を残してあっさりと消えていくかも知れません。

その体験の最中には、「これで自分の歩みは全て終わった」「全ては成就した」「煩悩即菩提、無くすべき煩悩もなければ、得るべき悟りも無い、これ、このままでOK!」と感じられることでしょう。

しかし時が経ってみれば、その経験によって与えられたものは、自身を見る眼 ―今まで見えていなかった、より微細で潜在的な、多くの未解消問題、煩悩の動きに気づくことができる眼― でしかなかったことに気づくでしょう。

そして、そこから再び、残る問題と取り組む漸進的な道のりが始まります。

その歩みは、より微妙に、精妙に、また途方も無くダイナミックに、人知れぬものとなっていきます。(習気、ヴァーサナ、随眠、正念相続、潜行密用)

※ この垂直後の水平期は、垂直体験によって見たもの(見させて貰ったもの)を深化、安定、定着させる重要な時期でもあります。
※ 禅宗の伝統では、この水平的・垂直的という話を「六祖慧能と神秀の詩対決」で説明します。
神秀=水平的、慧能=垂直的で、どちらが正しいと云うことではなく、どちらも無ければ足らないのです。

慧能 - Wikipedia  慧能【本来無一物】
※ 内観研修ひとつを取ってみても、第一段階の「愛されて許されていたことの再確認、親、家族との和解・許し、自己受容」と「倫理的な自己形成、自我確立」「恩と愛の再確認」に主眼を置いた研修もありますし、その先の「自我そのもの本性としての、うそと盗み」「人間存在そのものに根ざす煩悩の凝視」から「絶対他力」へと至る、多くの行程段階に応じた研修が実際には行われています。


禅、ヴィパッサナー瞑想、内観と、それぞれの伝統が磨き上げられた「自己を見る(見破る)ためのシステム」を持っており、これは実際に時間をかけ実習し、体認・体得していく以外、近づきようもない道です。

日常とリトリート(集中的修行)の往復運動



※ リトリートとは、ある一定の期間、集中的・徹底的に自分と向き合うため、世間から離れてお篭りし、自己観察の行に専念すること。 禅宗で云う、接心・摂心(せっしん)に同じ。

私たちが生きている現実という荒海のなかで、既に苦しみの真っ只中で溺れ喘いでおりながら、教本を片手に、そこから脱出する道・方法・泳ぎ方を覚えるのは困難なことです。

そこに、いったん陸にあがり、温水プールのような制御された擬似的環境のなかで泳ぎを学ぶ集中的訓練=リトリートの価値が存在します。

それは「畳の上の水練」に似た予行演習ではありますが、小さくはない効果を持ちます。
プールの中でであれ一旦泳げるようになれば、波立つ外洋もそれほど怖い場所ではなくなり、そして、そのうち、怖がりさえしなければ、実は元々泳げたのだと云うことにも気がつくのです。

年に一度の、あるいは二度の、リトリート期間を持てたなら幸いです。
リトリートと日常、日常とリトリートの往復― それは互いを深め合います。
そのなかで、現実の荒海での身の処し方、楽に浮かび流れるコツを学んでいくことができ、最終的に、生きることそのものの質を変えていきます。


リトリート(集中的修行)は人間にとって、最高の娯楽、最後の道楽となり得るでしょう。
それは、自身の持てる知力、体力、精神力、それらすべてを注ぎ込み、身を尽くし心を尽くして、全身全霊でおこなう遊びであり、そのなかに、人として持てる範囲の、あらゆる喜び、悲しみ、苦しみ、明晰さの体験― 生きることの醍醐味があります。

それを一度味わえば、あらゆる外なる刺激・娯楽は二義的な価値しか持たなくなるでしょう。
遊びに行きたければ自身の内なるテーマパークへ遊びに行けば良いのだし、映画が見たければ私と云う映画を、本が読みたければ私という本を読めば良いことと知るからです。

「単布団上 三千世界 庵中の主人 黙々として遊ぶ」(単布団とは、瞑想用の下敷・クッションのこと)

参考となる地図



最後に、他の方が書かれた気づきの旅の地図 ―「いま、ここ、私」へ至るための地図― として幾冊かの本を紹介しておきます。
どれも質の良いものだと感じます。(ただし、すべてが私の見解と一致している訳ではありません)
それぞれの人が、自身の道の歩みを振り返り、自分だけのオリジナル地図を作るのでしょう。

『無境界―自己成長のセラピー論』  ケン・ウィルバー

『過去にも未来にもとらわれない生き方』  ステファン・ボディアン
原題 Wake Up Now : A Guide to the Journey of Spiritual Awakening

『意識(サイクロン)の中心』 ジョン・C・リリー



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